驚き!秀吉の朝鮮出兵とは神の摂理だった!

「日本は神側に立てられた国家」第8章より

先見眼を持ち合わせた秀吉の

判断が日本と朝鮮を救った

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豊臣秀吉は、1591年9月に九戸城の戦いを治め天下統一(平定)を果たすと、その翌年の1592年3月には、宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵させました。朝鮮出兵は、これまで一般的には「朝鮮征伐」とも言われ、学校教育では秀吉の野望や強欲さ、分配する領地を確保するためというようなことが、その理由に挙げられてきました。

統一教会でも、秀吉の朝鮮出兵は、主の国韓国に攻め入った大変悪いことと教えられてきました。したがって、これはサタンの所業として日本にとって恥ずべき歴史のように捉えられてきたと思います。しかし、神の復帰摂理的観点に立って考えると、この戦いは再臨主を迎えるために必要なものとして理解することもできるのです。また、歴史学者たちの研究によって、事実は朝鮮征伐というよりも「明(中国)」との戦いに挑んだ出兵だったとわかってきました。

 

この時期、本来ならば各武将たちは領地の治安回復や経済復興こそが政治使命であったにも関わらず、何故、わざわざ朝鮮に大軍の兵を出したのでしょうか?16万の軍勢は、関ヶ原の戦いの東西両軍の数と匹敵するもので、秀吉や各武将がいかにこの戦いを重要視し、日本軍が総力を挙げて望んでいたかがわかります。

実はそこには、当時のアジアや日本を取り巻く緊迫した国際情勢と、神の摂理的な理由があったのです。

その頃、スペインはルソンに、ポルトガルマカオに、オランダはジャバに東洋侵略の拠点を構え、日本や朝鮮もその標的になっていました。その尖兵としてキリスト教の宣教師が日本に派遣されていたのです。当時の植民地政策は宣教師を先に派遣し、国内に宗教的従属者たちを作り、次に商人や軍人を送り込み、内部から切り崩し工作を行うというもので、その方法で世界の国々を支配下に治めていました。もちろん、キリスト教を受け入れない者や逆らう者は容赦なく虐殺することも少なくありませんでした。

実際、当時既に日本でも九州地方の住民の強制的なキリスト教(カトリック)への改宗や神社仏閣の破壊といったことが行われており、日本固有の信仰が破壊される恐れが出てきていたのです。さらにポルトガル人が、日本人を奴隷として多数海外に連れ出していました。秀吉はこの事実を知り、日本イエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し、問い詰めた上で博多においてバテレン追放令を発布していました。秀吉は神父の衣の下に武器が隠されていることを見抜いていたのです。

当時のフィリピンは、既にスペインの植民地であり、日本宣教に来ていたイエズス会東インド巡察師ヴァリヤーニは、1582年12月14日付のフィリピン総督に宛て、スペインが次にどの国に向かうべきかを書き送りました。本能寺の変から半年後に、次のような書簡が書かれていたのです。

「これらと東洋における征服事業により、現在いろいろな地域において、陛下に対し、多くの門戸が開かれており、主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところである。・・・それらの征服事業のうち、最大のものの一つは、閣下のすぐ近くのこの支那を征服することである。」(高瀬弘一郎 「キリシタン時代の研究」岩波書店)

驚くことに、イエズス会巡察使が、まず、支那(中国)から征服すべきであると進言しているのです。彼はイエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括したキリスト教宣教師ですが、彼らの目的が布教だけでなかったことはこれらの書簡を読めば明らかなことです。

秀吉は当時のスペインの植民地戦略を詳しく調べており、スペインが明(支那)を植民地として支配下に治め、支配された明の兵が大軍勢を仕立てて朝鮮半島を通って日本に攻めてくれば、元寇の再来のようになってしまうことを危惧しました。そのために、やっと国内を平定したばかりにも関わらず、日本がスペインが植民地にされては国家が滅びてしまうと考え、日本防衛のために先手を打って朝鮮半島から明までを支配下に置こうとしたのです。すなわち、スペインに対抗し得る壮大な東アジア構想を描いたのでした。なぜ、多くの武将たちがこの時期に一秀吉に従い、兵を出し、勇猛果敢に海を渡って他国にまで行き真剣に戦ったのかは、このような日本の置かれた当時の情勢を彼らも理解したが故だったと言えるでしょう。

朝鮮出兵は、隣国朝鮮を攻めるのが目的だったのではなく、目標は明を支配下に置こうと考えたもので、それも侵略というより、むしろ日本をはじめ、明、朝鮮を残虐な植民地政策から守るためでした。歴史研究家の資料によれば秀吉軍の一番隊であった小西行長は釜山から朝鮮半島を一気に駆け上がり、武具をつけないで走っても10日かかる距離をわずか20日間ほどで現在のソウルまで到着したとのことで、これは想像を絶する速さでした。

当時、明は完全に衰退期に入っていたので、秀吉には十分勝算があったはずです。事実、日本軍の圧倒的な鉄砲の威力の前に明軍は大敗し、そのまま進撃を続ければ計画は果たされていたでしょう。

何故そのような事が可能だったかというと、李氏朝鮮国の公式記録「宣祖実録」によると、李王朝は両班同様に当時の国家を取り巻く情報に無頓着で戦う準備がなかった上、人口の大半は奴婢と呼ばれる農奴や奴隷であり抵抗勢力があまりなかったからでした。

また 宣祖王の家臣達は秀吉軍が攻めてきていることを知るや否や、王室の畜舎にいた家畜を盗んで桜よりも先に逃亡し、王もその後を追って逃げました。そのため、住民たちは王が民を見捨てて逃げたことを嘆き、多くの民衆が国王や両班に反旗を翻し日本軍に協力する者が続出したのでした。

日本軍は、朝鮮軍からの抵抗をあまり受けることなく、北進を続け、6月15日には平壌が陥落しました。日本軍より先に漢城から平壌に逃亡した宣祖王は、平壌に日本軍が迫ると再び逃亡し、明に救援を要請しました。

7月16日に明軍の援軍が平壌に到着しましたが、日本軍はこれを撃退しました。加藤清正らの二番隊が進んだ 咸鏡道(半島の北東部)については、既に各地の士兵・土豪は役人を捕らえており、日本兵は刀剣を使わずに快進撃しました。 咸鏡北道明川以北の八城市に至っては、従来の政府役人に代わって日本軍の庇護のもとに隆起した民衆が首長となりました。

しかし、明の戦いにおいては勝利したのですが、朝鮮の寒さや貧困な食糧事情、あるいは疫病などの問題に悩まされ始めていたおり、たまたま秀吉が死んだことで早々に明軍と和議を結び全軍が朝鮮から撤退しました。このことから考察しても、日本が朝鮮の領土を奪うことを目的に挑戦に出向いたのではないことがわかります。仮にそれが目的であれば、何らかの手段を講じて領地を支配し、日本の主権が及ぶ 状態を作り出していたことでしょう。

余談ですが、唐辛子がこの時の文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島に持ち込まれ、キムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いたのでした。

韓国の教科書には「(日本軍侵略のために)文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているそうですが、史実は朝鮮の民衆が景福宮等を火をつけたものであり、秀吉の軍隊が漢城に入る前にはすでにそれらの建物は焼け落ちていたのでした。

また、日本の教科書では「明の援軍や朝鮮民衆の激しい抵抗にあって苦戦を強いられた」という記述があるのですが、これは事実と全く違います。左翼思想的な意図により歴史が歪曲され、子供たちに間違った教育が施されていることを私はとても憂いています。

もちろん、日本からの出兵は、李氏朝鮮両班にとっては迷惑千万な話でしょう。しかし、一般国民や、特に奴婢と呼ばれる奴隷にとっては歓迎されたことが、歴史をきちんと調べるとわかります。最近、このような内容を記した書籍等も多数出版されていますので、是非とも確認してみてください。

推薦図書「侵略の世界史」清水馨八郎 祥伝社

仮に、秀吉が朝鮮出兵を行わず、この時に日本の国力をスペインに見せつけていなければ、朝鮮半島がスペインの植民地となった可能性は否定できません。もしも、日本や朝鮮が植民地化されていたならば、中南米などで先住民の絶滅政策によりそのほとんどが抹殺されたのと同じことが、朝鮮や日本でも起きていたかもしれません。

当時のスペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ先手を取って迫った秀吉の先見眼と壮大な気宇があったればこそ、日本も朝鮮も植民地化を退けることができたのです。

このようにして、次の徳川時代へと日本は移行していきました。欧米が他国を侵略し植民地政策に奔走している時代に、日本が鎖国をし、平和な国家を260年も維持できたのは、秀吉のこの時の功績があったればこそなのです。

江戸時代、国内が平和だったために、人口が倍増し、学問や芸能で国民全体の人格や教養が向上しました。徳川幕府鎖国時代に何もせずにいたのではなく、常に欧米列強の動きを収集し、武士道や大和魂により精神練磨をしながら、一方で兵学を学び有事に対抗する準備も怠ってはいなかったのです。このことが、幕末の国難を乗り越え、明治維新から一挙に近代化を成功させた要因となりました 。

近代、日本は朝鮮の支配権を巡って日清戦争日露戦争を戦いました。それは、欧米の植民地思想に基づいた動きが止むことなく、常にアジアの平和を脅かす状態が続いていたからです。朝鮮半島が日本にとって軍事的に重要な地政学上の位置にあったが故に、かつてスペインが明を通して植民地化政策を進めていたのに対して戦ったのと同じ事情により、朝鮮を舞台に戦いが展開されることとなったのでした。

清はイギリスとのアヘン戦争に敗れ、上海や香港を制圧されたため、その頃の朝鮮の内乱につけこんで軍を進行させました。日本にとって国家防衛の生命線であり、朝鮮の独立を守るために日清戦争に至りました。

また当時、ロシアが陸続きの朝鮮にまで勢力を伸ばしてきたので、日本は日英同盟を結んで、再び日本の生命線を守り朝鮮半島を救うことを目的に日露戦争に至りました。二百三高地の戦いでは、59000人もの戦死者を出しながらも、ロシアによる朝鮮への侵略を止めました。日露戦争は、有色人種が歴史上初めて白色人種に勝利した大戦で、すでに欧米列強に植民地化されていた非抑圧民族を鼓舞したのでした。これこそ、人類解放の出発点と あったのです。

ここで、日清・日露戦争のことは詳細に述べませんが、日本が清と戦わず、清が朝鮮半島を統治していたなら、その後の毛沢東共産主義革命により、韓国もおびただしい粛清の末に中国共産党政権によって支配されていたでしょう。

また、ロシアが朝鮮を支配していたならば、レーニン共産主義革命をなした時に、朝鮮半島全体がソビエト連邦の一つに加えられた可能性があります。そうなれば、韓国も今の北朝鮮のような国家となっていたはずです。当然、再臨主を地上に迎えるための基盤を作ることができず、文先生が誕生することはできなかったでしょう。仮に誕生されたとしても共産主義政権により、早々と殺されていた可能性があります。

日本は、摂理的観点から見れば、神が朝鮮半島を守るために中国やロシアという大国に挑ませたのですが、残念ながら、それまで盟友であったはずのアメリカやイギリスはアジアでの領地の拡大を目指していたため、日本の勝利を快く思わなかったのです。特にアメリカは、アジア太平洋の覇権と市場を独占できない邪魔な存在として日本を仮想敵国に仕立て、第一次世界大戦以後、直ちに日本攻略のためのオレンジ作戦を立てて行ったのでした。もちろん、日本に敗戦したロシアは復讐の機会を虎視眈々と狙っていました。それが、日本が太平洋戦争に敗れた直後に満州北方領土に武力侵攻した理由でもありました。

キリスト教指導者層の腐敗によるサタン侵入だけでなく、キリスト教神学による善悪二元論的価値観は、神の名による白人がなす行為は全て正義で、それを阻むものは悪であると考える傾向が強く、これが、日本を巻き込んだ太平洋戦争へと繋がっていく大きな要因となったことは、現在においても忘れてはならない教訓です。

「日本は神側に立てられた国家」第8章より