原理講論が記せなかったキリスト教の姿とは?

「第三イスラエルの終焉と新しい時代の始まり」より

 

第二章

キリスト教の国家的基盤崩壊と東方

洗礼ヨハネの失敗の遥か以前に崩壊していた選民基盤

 

f:id:nihonwakamigawa:20200423205051j:plain

原理講論では、イエス様が十字架にかけられた最大の理由として、洗礼ヨハネの失敗によりイスラエル民族の基盤が崩れたためと説明していますが、果たして本当にそうだったのでしょうか。

歴史を振り返れば、イスラエルの基盤が崩れたのは、洗礼ヨハネより1000年も近くも前、サウル、ダビデに続く三代目の王・ソロモンの時でした。栄華を極めたイスラエル王国は、ソロモンの堕落によって南北に分裂(紀元前930年頃)北朝イスラエルアッシリアによる捕囚の後に行方知れずとなり、南朝ユダのに二部族は新バビロニアの捕虜となってしまいました。この事実は、神が準備したメシアを迎えるための国家的基盤にサタンが侵入したことを示すものであり、原理的にはメシアを迎えるための選民基台の崩壊を意味する大事件でした。

現実社会において国家基盤は主権を持って国民を保護するために必要不可欠なものです。また縦横の8段階復帰の図で見れば、「国家」は長成期完成級を越えた「実子」に連結されています。実子つまりメシアを迎えるためには国家基盤が必要であるということです。国家基盤が崩れたところに降臨されたメシアは、その本来の使命を全うすることが極めて難しくなります。それどころか、イエス様や文先生の路程を見れば分かるように、命さえ危ない状況に追い込まれてしまいます。

ソロモン失敗後、神はイスラエル選民に預言者たちを遣わし悔い改めるように導かれますが、腐敗は治らず、摂理的にメシア降臨時代を迎えても国家的基盤を築くことができないままでした。結局神は、ローマ帝国の統治下、サタン分立ができないままの惨めな民族基盤の中に、独り子イエス様を送らざるを得なかったのです。その時の神の心情はいかばかりだったでしょう。それはまさに「狼の群れに羊を送り込むようなもの」だったに違いありません。

本来ならばイスラエル王国が欧州全土を席巻していた

ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀の中頃、イタリア半島を南下したラテン人たちによって形成された都市国家(王政ローマ)であったとされています。それから紀元前6世紀の終わり頃に共和制に移行し、さらに紀元前27年にオクタヴィアヌス(アウグストゥス)が初代ローマ皇帝に即位します。一般的にはこの時から帝政ローマが始まったとされています。

それに対してイスラエルは、原理講論によれば、その1000年以上も前にサウルが王としてして立ち、統一王国が築かれていたとされています。サウルの死後、ダビデを後継者とするユダ族と、サウルの子イシュバールを押すその他11部族との間でと数年間にわたって内紛が起こりますが、紀元前995年頃、ダビデペリシテ人ら異教徒との戦いに勝利したことをきっかけに、再び統一王国が成立。一般的にはこの時がイスラエル王国の始まりと考えられているようです。

サウル・ダビデに続く三代目の王ソロモンの在位が紀元前971年~931年頃なので、仮にソロモン王の時にイスラエル統一国家腐敗堕落せず分裂もしなかったならば、ローマ帝国が地中海沿岸で力を持ち始めるより200年以上も前に、強力な神側の選民国家基盤が造成されていたことになります。もちろんそれ以降、地中海沿岸地域全体を収めるのはローマ帝国ではなく、イスラエル国家でありユダヤ教徒たちであったに違いありません。それどころか摂理的観点から言えば横的な版図は国家基準を越えて、この時すでに世界全体へと拡大されていたとも考えられます。

もしもそのような状況下で、神を中心としたイスラエル国家にメシアを迎えることができていたならば、旧約聖書に預言されているように、イエス様は全世界の王の王として立ち、世界の人々を救済し神の国を樹立していたに違いありません。当然、十字架にかけられ、ローマ兵に槍で突かれて死ぬことなど絶対になかったはずです。

しかし実際の歴史は、ソロモン王の失敗によりメシア誕生の約1000年も前に、選民圏国家にサタンの侵入を許す結果になっていたのでした。さらにその後も侵入したサタンを分立できず、失った国家基準を取り戻すことができないまま歴史が流れてしまいました。いよいよメシア降臨という時が来ても、それを支える国家的基盤もなければ、信仰もないという、極めて深刻な状況にあったのです。その上最小限の保護圏であったはずの家庭的基盤(ザカリヤ・ヨセフ家庭)さえも崩れかかっていました。(そして実際にはそれも崩壊してしまいます。詳しくは後述)

メシアを迎える基台が崩れた状態においては、メシア本人の力がどれほど偉大であっても、その本来の使命を全うできないのは、原理的に見てどうしようもないことです。

文先生は、復帰摂理は、縦的8段階と横的8段階が連動しながら調和的に発展していくと説明しておられます。

f:id:nihonwakamigawa:20200423210224j:plain

上の図に示したように、横的な国家基準は縦的な神の実子基準に連結しています。これは、もし国家基準にサタンが侵入したならば、サタンは神の実子を打つことができる条件を手にしたということを意味しています。

現実的に考えても、国家的権力があれば、狙った家庭を破壊し一人の命を奪うことなど、簡単にできてしまうでしょう。

なんとか生き延びることができたとしても、国家基盤をサタンを押さえている状態のままで神の国を作ることは不可能です。まさに国家基盤はメシアを迎えるための横的な要なのです。

フランク王国分裂と再臨主の十字架との関係

原理講論に『同時性の時代が反復される理由は、「メシアのための基台」を復帰しようとする摂理が、反復されるからである。』(P437)と記されているように、第二イスラエル(キリスト教)は、第一イスラエルの失敗を取り戻すために、その歴史を同時性的に繰り返すことになります。

800年にチャールズ大帝によって立てられたキリスト教統一国家フランク王国は、摂理的同時性から見れば、サウルからダビデ、ソロモンまでの三代・120年間にわたる統一王国時代の失敗を蕩減するためのものでした。しかし結果は、その基盤を取り戻すことができず、またも三代目に王国の後継者争いで軍事的衝突に至り、結局、東西(843年ヴェルダン条約によって三分割)に分裂しています。わずか43年で統一国家が分裂し、サタンの侵入を許す結果になったということになります。その後は、西フランク王国は987年、中フランク王国が950年頃、東フランク王国911年に、それぞれ王位を継承し得る家系が消滅し、国王が途絶えてしまいます。

原理講論ではキリスト王国時代を、ドイツ王ヘンリー 一世王位つく 919年までの120年間としていますが、実際にフランク王国が分裂し国家が崩壊した時から、73年も経過しており、原理的な数的原則から逸脱した誤った解説です。(日本語の原理講論が出版された1967年当初より教学関係者の間では問題視されていたようです)

原理講論では、この期間を「統一王国時代の120年を実体的な同時性として、蕩減復帰する時代に相当する。」(P462~3)と説明しています。しかしフランク王国は早々に分裂し崩壊したのですから、国家的な蕩減復帰時代として成立したというより、むしろ国家崩壊という失敗の歴史が繰り返され、蕩減が加算された期間であったと理解すべきではないでしょうか。

フランク王国の失敗を原理的観点から見るならば、再臨主を迎えるための最も重要な国家的な基台をサタンが奪っていったということにほかなりません。それは、再臨主の生涯が本来予定された栄光の王としてではなく、苦難の道を行かざるを得なくなる可能性が高まったということを意味しています。かつてイスラエル王国が崩壊した時に、イエス様の十字架への道が濃厚になってしまったという歴史が反復されたのです。

さらにそれ以降の歴史においても、第一イスラエルがそうであったように、第二イスラエルも悔い改めの機会を逃し、数々の失敗を繰り返すことになります。その結果、神は再臨主を、その本来の使命を全うすることが絶望的な状況の中に送らざるを得なくなったのです。